「真夏の陽射」



第二章

 

 鈍色の、どんよりとした梅雨の暗雲が、窓越しに覗いていた。
 やがて、ぴかぴかに磨かれた大きな窓ガラスの外側に、ぽつり、ぽつり、と小さな水玉模様をつくる。
 そこだけ時間が止まってしまったかのような、長い、長い、沈黙……。
 じめじめとした重い空気の中で、皆それぞれ別々の、いろいろな事が複雑に頭の中を渦巻いていた。
 桜子の事。
 自分自身の事。
 受験の事。
 TOYBOXの事。
 そして、これからの事……。

 サクちゃん……。
 TOYBOXのボスこと雪絵は、桜子の事だけを考えていた。
 雪絵もまた、桜子と同じような境遇に育っていたため、共感する事が多かった。
 実のところ雪絵の両親は、自分達が家を留守にしている間、娘がこんな活動をしているなんて知る由もなかった。
 今、もしそれがバレたら、雪絵は桜子と似たような状況に陥るかもしれない。
でも雪絵と桜子の決定的な違いは、親に対して自分の意見を述べる事ができるか、できないか、ということだった。

   サクちゃんは、今まで親に反発も出来ずに、自分の意見を飲み込んで、ただただ我慢して、毎日生きてきたのかもしれない……。
 親のエゴに振り回される人生なんて、あまりにもかわいそうだ。
 サクちゃんに代わって、桜子のお母さんに言ってやりたい。
 サクちゃんは、あなたのロボットじゃない!
 ちゃんと血が通っていて、自分の意志を持った人間なのに。

   しかし、桜子の家庭の事情にまで口を挟むわけにもいかない。
 桜子のお母さんに意見を述べたところで、所詮子供の戯言、などと思われて取り合ってくれないだろう。
 もしくは、生意気な友達だ、などと雪絵を非難することによって、桜子と桜子のお母さんの関係が更に悪化するのがオチである。

   自分が非難されるのは別に構わないけど、サクちゃんを悲しませるような結果を招くようなことはしたくない。
 とにかく今は、サクちゃんが今までどおり活動に参加できる方法を考えることが先決だ、と雪絵はあれこれ思案していた。

    「さくらこっ」

   突然、くっきりと心に残るような呼び掛けが、永遠に続くかのようなその沈黙を破った。
 濁りのない、一本筋の通ったその声の主を、皆よく知っている。
 そしてその声によって、しばらく時を止めていた時計が、再び動き始めた。
 一斉に顔をあげ、各々が目を向けたその先にいたのは、凛子であった。

 凛子は、プラスチックの長椅子に並んで座っていた桜子の肩に手をやった。

   「もうすぐ夏休みだよ!普段学校にいる時間を、TOYBOXに充てられるんだよ!」

   一瞬、変な間があったが、その言葉にいち早く反応した雪絵が、こうフォローした。

 「そうだよね!午前中からうちに集まれば、午後の塾の時間には間に合うだろうし……。どう?サクちゃん?」
 「……うん。それなら何とかなるかも知れない。雪の家からだと新しい塾も近いし。ぎりぎりまで居られると思う。」
 「よかった!サクちゃん、これからいろいろ大変かもしれないけど、できるだけ協力するからね!」
 「ありがとう、雪。私もできるだけ頑張るよ!」

   すっかりしおれてしまっていた桜子だったが、水と日光を浴びた花のように、少しずつ元気を取り戻してゆく。
 それは、桜子だけでなく、他の皆にも言える事であった。
 さっきまでの沈黙が無かったかのように、再び楽しげな談笑が始まってしまったのである。

   「そうだ!いい事考えた!長編ドラマを作ろうよ!題して『TOYBOX夏休みスペシャル!』ネタ考えなくっちゃ!」
 「いいねぇ、それ!賛成!張り切って脚本書かせて頂きまーす!」
 「次は……冒険モノかな!」
 「リンちゃん、私もそのネタ会議に参加してもいいかな?」
 「じゃあ、早速ネタ会議を開くとしますか……。」
 「あっ!もうこんな時間!早く行かないとボウリング場もカラオケルームも混む時間帯になっちゃうよ!」
 「えぇっ?大変!皆、急ごう!」
 「みんな忘れ物はなーい?」
 「そういえば、あのお財布、誰の?」
 「理衣のだ!りえりえーっ!ワチフィールドの小銭入れ忘れてるよ!」

 色とりどりの朝顔が咲き乱れるかのごとく、ひとつ、またひとつと傘が開いてゆく。
 無色透明の雫が、その花弁の色を映して、様々に煌めいていた。
 私達に残された時間は、あとわずか。
 だからこそ、悔いのない高校生活にしたい。
   「桜子!今日は、思いっきり遊ぼう!今しかできないんだから。ねっ!」
 「そうだね、ありがと、凛。ごめんねみんな。突然変なこと言っちゃって……。」

   桜子の表情は、もういつの間にか微笑みに変わっていた。


 「今しかできない、か……」
 あの時、不安を先送りにする台詞を吐いてしまった凛子であったが、勿論凛子だってこれからの事を気にしていないわけではなかった。
本当は実のところ、ボウリングので順番を待っている時も、カラオケで皆がはしゃいでいるときも、凛子はひとり、うわの空だったのだ。

   桜子は勉強が出来る子だからなぁ。
 やっぱり夏休みが終わってしまったら、受験勉強に専念する為に、TOYBOXから離れてしまうのだろうか。
 そして、やがては他の皆も。

   凛子は「大学受験のための勉強」をする気にはどうしてもなれなかった。
 当時は不況、不況と毎日のように騒がれて、四大卒の女子の就職は大変厳しい状況にあると言われていた。
 もはや学歴社会、などという時代ではない。
 これからは専門職の時代かな、と漠然とは考えていた。

   けれども、自分は将来、一体何をやりたいんだろう。
 雪絵のように「役者になりたい」というハッキリとした夢を持っていれば、自分の進む道はおのずと見えてくる。
 現に雪絵は、N大の演劇学科志望で、もしそこが駄目なら他の大学に通いつつ、俳優養成所にも通うつもりだと言っていた。
 刹那主義で過ごしてきた凛子は、今後の具体的な進路については、これっぽっちも考えていなかった。
 高校受験の時だって、偏差値と交通の便の良さだけで今の学校を選んだだけであって、別にどこでも良かったのだ。

   でも……。
 この学校に入学したからこそ、雪絵と出逢い、桜子と出逢い、TOYBOXのメンバーと出逢うことができた。
 もし違う学校に入学していたなら、このサークルの存在はありえなかったはず。
 TOYBOXの皆と出逢わなかったら、自分はつまらない人間のままであったに違いない。
 かつて、誰にも心を開くことなく、いつも一人でぼんやりと窓の外を眺めて、無駄に過ごしてしまった時代があった。
 これまでの自分の人生の中で、こんなにもたくさんの仲間に囲まれて、毎日を生き生きと過ごしたときがあっただろうか。
 皆と離れたくない。いつまでも、このままでいたい。
 「いつまでも」という言葉が、凛子の頭を埋めていた。



 試験休みと時同じくして、梅雨の中休みも訪れた。
 久方ぶりの太陽は目もくらむほど眩しく、湿り気を含む生ぬるい風が、時折、ゆるやかに通り過ぎてゆく。
 肩と背中を被っている夏用のセーラー服の付け襟は、クールウールなどという涼しげな名前の素材でできていたが、相反してその下のブラウスは襟の形に汗ばんでいた。
 授業はなかったのだが、休み明けに文化祭があるのでその準備の為、毎日ではなかったが皆バラバラに登校していたのだった。
 受験勉強の妨げにならないようにという配慮か、この学校では毎年六月の終わりに文化祭を開催していた。
 TOYBOXは学校非公認のサークルなので、TOYBOXとして文化祭に参加するという事は無かったのだが、それぞれが別の活動で忙しくしていた。

 例えば知世は、文化祭実行委員の仕事に追われ、学校中を駆けずり回っていた。
 雪絵は合唱部に所属していたので、ピアノや歌の練習に励んでいた。
 桜子と薫は、茶道部の打ち合わせ。
 理衣は文芸部で発表するためのボードを作るのに、大きな模造紙に鉛筆で下書きをしている。
 家庭科部の萌実は、変り種のクッキーを焼くんだ!と言って張り切っていた。
 この学校で三年生が部活に参加するのは、はっきりいってこのシーズンだけである。
 しかも、ごくごく一部の有志のみ。
 こういうことになるとすぐ熱中してしまうところに、TOYBOXメンバーらしさを感じずにはいられない。
 文化系の部活に入っていないメンバーも、クラスで「甘味処」をやる事になったので、買い出しやら、部屋の装飾やらと、てんてこ舞いの日々を送っていた。

   そんなこともあって、ここ一週間ほどTOYBOXの活動はこれといってなく、全員が顔を合わせることはなかった。



 そして、七月。
 文化祭も終わりを告げ、まるで何事も無かったかのように、校内は再び静けさを取り戻していた。
 久々の退屈な授業の為に登校した生徒達が、次々に校門をくぐっていく。

 「おはよう。」
 凛子の頭の上で、雪絵らしき声が聞こえた。
 下駄箱から白い上履きを取り出して履き、学校指定の黒いローファーを収めて顔をあげた凛子は、思わず目をまるくした。
 「あれっ!?」
 背中の真ん中位まであったはずの、雪絵の後ろ髪。
 それが今では、彼女の肩越しの景色がはっきりと見えてしまう。
 「切っちゃったんだ!」
 「うん。」
 照れくさそうに微笑んで、コクリとうなずく雪絵。
 ショートボブの横髪が、頬を包むようにちょこんと揺れる。
 「バッサリやっちゃったね!いつ?昨日?」
 「昨日の夜。梓に切ってもらったんだ。」
 梓というのは、雪絵の家の近所に住んでいる、帰国子女の友人の事だ。
 TOYBOXの収録の時に、一度だけ遊びに来た事があった。
 純粋な日本人なのに、まるでフランス人のような色白美人。
 それでいて気取らなくて、サバサバしていて、とてもユニーク。
 同性から見ても、魅力的な子だった。
 「へぇーっ!梓ちゃん、上手いなぁ!美容師のセンスあるよね。雪絵、その髪型よく似合ってるよ!」
 「ありがと。梓にも伝えとくよ。」

   教室に入るなり、雪絵はクラスメートに次々と驚きの声を浴びせられていた。
 「あーっっ!!ユッキーの髪が無い!!」
 「うそーっ!?何で切っちゃったのぉ?ロングストレートの似合う女第一位だったのに!」
 「いいじゃん!いいじゃん!絶対そっちの方が雪ちゃんに合ってるって!」
 「うんうん、もう夏だしね!サッパリしてていいよね!私も切ろうかなぁ。」
 微笑みながらも心なしか寂しげな雪絵の表情に、凛子達は気づいていなかった。


   八時五十五分。  一時限目の予鈴が鳴るやいなや、遅刻ぎりぎりでやって来たコギャル達が、ドタバタと騒がしく教室に駆け込んでゆく。
 談笑のざわめきと、椅子を引きずる音も入り混じり、教室はいちだんと騒々しくなった。



 数日前の電話で、心を決めた。

   「ねぇ、今度の日曜日、聡、うちの学校の文化祭に来るよね?合唱部の発表、聡にも是非聞いてもらわなくっちゃ!」
 「ごめん、その日は、サッカーの練習があって……。」
 「……最近全然会えないよね。この前の日曜日も、その前もサッカー、サッカーって……。」
 「ごめん、雪……。」
 「いいよ。わかってる。高校の部活だけでは飽き足らず、休みになると、元中の友達集めて一日中サッカー。サッカーに明け暮れる生活。昔からそうだったもんね。小学校の頃から。」
 「……。」

 聡は、絶対に私に反論しない。
 私が忙しくて会えない時でも、それを私みたいにこんなふうに咎めることはない。
 いつも、ただただ、ごめん、と謝るだけだ。

 「じゃあ、日曜日頑張ってね!また電話するから。」
 「うん、雪も頑張って。」
 「じゃあね。」
 「うん、じゃ。」

   聡と雪絵は、小学校三年生からの幼なじみだった。
 高二のバレンタインに雪絵が告白したのがきっかけで付き合うようになったが、それまでずうっと、雪絵の一方的な片思いだった。
 いや、付き合っている間も、片思いだったのかもしれない。
 聡はやさしすぎて、交際を断る事も、別れを切り出すこともできない人だから……。

   昔からそうだった。
 女の子に散々振り回された挙句、飽きられてポイッと棄てられる。
 雪絵は、聡が昔の彼女にそんなふうにされたところを、何度となく見ている。
 小学校の時にも、中学の時にも。
 その度にいつも、私だったらそんなこと絶対にしないのに、と思っていた。
 顔良し、性格良し、スポーツも勉強も出来る。
 こんなに魅力的な男の子を、彼女等は何故いとも簡単に棄ててしまったのか、あの時はわからなかった。

   でも、付き合ってみて、やっとその理由がわかったような気がする。
 すべては、「サッカー」という恋人が原因だったのだ。
 だけど「サッカーと私、どっちが大切?」なんて台詞、言えるわけがない。
 サッカーは、聡にとって生き甲斐であり、将来の夢に繋がるものだから。
 雪絵は昔から、「サッカーをしている聡」が好きだった。
 初めてサッカーをしている姿を見た時も、十年経った今も、その気持ちは変わらない。
 サッカーにだったら、聡を譲ってやってもいいかな、と雪絵は思った。

 そして昨日の夜、雪絵は聡に最後の電話を掛けたのだった。

 「……別れよう、聡。」

   別れよう。でも、これからも心の奥深くでずっと、聡を想い続けていこう。
 そう、決めた。


 RRR……RRR……。

   「……あ、もしもし梓?ごめん寝てた?」
 「寝てないよ。どうしたの?」
 「今からそっちに行ってもいい?」
 「?うん、いいけど。実は今、自分で前髪切ってる途中なんだけどさぁ……」
 「そっか、だからなかなか電話に出なかったんだ。そうだ!思い立ったが吉日!私のも切ってよ、梓。」
 「えっ?でも、雪絵ワンレンだから前髪ないじゃん!」
   「梓の好きなように切っていいよ。」
 「?????」
 「じゃ、五分で行くから。あとでね!」

 左手に受話器、右手にハサミをもったまま、梓はしばし、電話の切れた音を聴いていた。
 真夜中に突然掛かってきた、雪絵からの電話。
 梓は中途半端に不揃いの前髪のまま、今夜は寝床が狭くなるに違いない、もしくは徹夜覚悟だな、と思った。



 日本史担当の赤ら顔のおジイが、更に上気しながら、熱弁をふるっている。
 かれこれ二週間振りの講義で、彼は相当意気込んでいる様子だ。
 とはいうものの、熱弁する内容は支離滅裂で、チンプンカンプン。
 やがて、頭と瞼の重力に耐えられずに、窓際の壁にもたれてまどろんでしまう、凛子であった。
 最前列の、しかも教卓近くに座っているに雪絵もまた、授業そっちのけでせっせと手紙を書いていた。
 雪絵にとって「手紙を書く」ということは、親しい友人への報告と同時に、自分の心を整理する為の作業でもあった。


 朝一番の長い五十分間がやっと終わり、つかの間の休み時間に入った。
 萌実は、たった今雪絵から受け取った手紙を真剣に読んでいた。
 ルーズリーフ三枚に渡って書き綴られた、雪絵の報告書。
 髪を切ったいきさつ。
 聡への一途な想い。
 悲しみを覆い隠すような、強がりの言葉。
 そして最後に、この手紙をTOYBOXの皆に回覧して欲しい、という風に締めくくられていた。
 読み終えた時、萌実はやりきれない気持ちでいっぱいだった。
 萌実の胸は何かで縛られたように締め付けられ、喉から震えるような小さな溜息がこぼれた。

   そんな時、まだ何も知らない凛子が何気なく言ったフレーズが、萌実の耳に届いた。
 「失恋で髪の毛切るなんて、イマドキ流行んないっつーの!雪絵は今ラブラブ真っ最中なの!縁起でもないこと言うなよ!ねっ、雪絵!」
 それを聞いた雪絵は、何も言う事ができなくて、ただ笑うしかなかった。
 萌実は、日本史のノートの一番後ろのページをものさしを使って丁寧に破ると、あわててペンを執った。


 雪絵が彼氏と別れた事は、午前中の授業が終わるまでに、水面下でTOYBOXのメンバー全員に伝えられた。
 雪絵の手紙に添えられた萌実の手紙の内容は、こうだった。

   雪ちゃんは全然平気な顔してるし、皆の前では強がりばっかり言うと思うけど
 心の奥底では深い傷を負っているはずだから、それを察してあげてね。
 変に励ましたりするんじゃなくて、そっと遠くで見守るように、皆で、雪ちゃんを支えてゆこう。



 夏休みまで、あと少し。
 お昼休み恒例のTOYBOX会議は、いつもとはほんの少し違った雰囲気の中で、今日もまた、始まった。



[第三章に続く]

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

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